SETOUCHI MINKA

【職人青春グラフィティ】銀の翼で翔べ。

丸亀市の実力派工務店「MIYAGAWA」で夢と希望に満ちあふれ、最高の家づくりを提供しようと研さんを続ける若いふたりの大工と久しぶりに再会。その現場には、大工としての成長ぶりに目を見張るふたりのたくましい姿とともに、先輩たちの背中を追いかけるフレッシュな新米大工ふたりの姿があった。

<取材・写真・文/鎌田 剛史>

家づくりに情熱を捧げる若き4人の大工たち。

駆け出し大工だったふたりと4年ぶりに再会。

4人の若き大工たちが縦横無尽に駆け回る建築現場。ムッとする暑さの中で、それぞれが汗びっしょりになって作業に打ち込んでいた。

あれからもう4年が経つ。20歳を迎えたばかりの若い大工ふたりと出会ったのは、ちょうどこの日と同じように、梅雨の合間の、どんよりとした雲の隙間から時折太陽がちらちらと顔を見せる蒸し暑い日だった。

讃岐富士を望む丸亀市内の閑静な住宅街の中にある、ライトグリーンの垂れ幕が掲げられた「MIYAGAWA」の建築現場。木材をカットするチェーンソーの甲高い音と、バシュッ、バシュッ、と小気味よくリズムを刻む釘打ち機の音が響き渡る室内に、なつかしいあのふたりの顔を見つけた。綸太郎と光平だ。

ふたりとも顔つきが随分と大人びていた。光平は真剣な眼差しで相変わらずひとり黙々と作業に汗を流している。綸太郎も手際よく木材を固定しながら、大工たちにテキパキと指示を出している。その左耳には、あの時と変わらずピアスがキラリと光っていた。4年前「大工もオシャレしていいと思うんすよ。作業服にタオル頭に巻いてとかってイメージあるじゃないですか。オレ、ダサいのはやっぱりイヤなんすよね~」とはにかむあのやんちゃな笑顔を思い出し、思わず口元がゆるんでしまう。

4年ぶりに再会した綸太郎と光平。現場での立ち居振る舞いもずいぶんと凛々しくなっていた。

若さゆえの喜怒哀楽。激しく揺れ動く思いを乗り越え、見つけた希望。

「綸太郎も光平もずいぶん大工らしくなってきたと思うよ。ふたりとも着実に腕は上がってるし、安心して仕事を任せられるようになってきたわ」と、「MIYAGAWA」社長の宮川豪紀はふたりの成長ぶりに太鼓判を押していた。聞けば、綸太郎は2年ほど前から棟梁としてバリバリ活躍しているといい、これまでに自らが陣頭指揮を取って7棟の新築を手掛けてきたそうだ。

「初めて親方をした現場の思い出ですか?うーん…とにかく緊張しましたね。果たして自分にできるんだろうかと、何度もプレッシャーに押しつぶされそうになりました」と綸太郎は言う。棟梁としての初舞台は先輩大工たちの力を借りながら、とにかくがむしゃらにやるしかなかったと、しみじみ振り返る。一生で最も高い買い物であり、住む人の人生そのものを彩る家づくりにおいて、棟梁の務めは当然ながら責任重大だ。逃げ出したくなったことはある?との問いには「いや、実は逃げたこと…あるんすよ」とポツリ。

隣りで作業の進行状況をじっと見つめていた宮川が口をはさんだ。「やっぱりオレはファッションの仕事がしたいと言い出したので、それなら好きにせぇと。でも、結局1ヵ月ぐらいで帰ってきたんよな。やっぱり大工する言うて」と、いたずらっぽい笑みを浮かべながら綸太郎の頭を小突く。「自分が好きな服屋の仕事に就けなかったのもあるんですが…。その時、自分は大工の仕事がやっぱり好きなんかな、と。一度離れてみて分かったというか、大工の道を極めて、親父のようになりたいと、あらためて思ったんですよね」と綸太郎は照れ臭そうに鼻をこする。父である宮川も苦笑いを浮かべながら頭をかいた。

若さゆえの迷いや葛藤から、ほんの少しだけ回り道も経験した今、綸太郎は一つ一つの作業精度はもちろん、現場全体の状況を見ながら次にやるべきこと、他の大工に指示することを瞬時に判断できるようになってきたそうだ。「やっと大工の面白さというか、仕事の醍醐味みたいなものが分かってきた気がします」と、控えめに胸を張る。

そんな綸太郎の活力の源となっているのは、愛する家族の存在だ。前回の取材後に結婚したといい、今ではふたりの子宝に恵まれている。一家の大黒柱としての責任感もしっかり芽生えているようだ。「子どもは3歳の息子と2歳の娘。休みの日には公園に連れて行って一緒に遊んでます。仕事から帰った時にふたりの可愛らしい笑顔を見ると、疲れも一気に吹き飛びますね。日ごろの子育てと家事を任せている妻には本当に感謝してます。家族のためにも、オレももっと頑張らんといかんですね」と、唇をキリリと引き締める。さらにこうも続けた。「光平の存在も自分にとっては良い刺激になってます。大工としてアイツには腕前で負けたくないという気持ちはもちろんありますけど、それよりはむしろ、一緒に一人前の大工に成長していきたいという思いの方が強いです」。

宮川 綸太郎

1997年8月12日生まれ。4年前は「彼女募集中」とおどけていた彼も、現在は1男1女の良き父親に。棟梁として手掛けた家の施主から引き渡し後に感謝の手紙をもらったことが忘れられない思い出だという。可愛い子どもたちと遊んだり、観葉植物のアガベを育てるのが心の癒やしとか。

「とにかく真面目でコツコツ地道にやり抜くタイプ。仕事も早くて丁寧にこなす」と宮川も一目置く光平は、あのころと変わらずクールな男だ。再会のあいさつを交わすと、伏し目がちにチョコンと頭を下げた。「前よりも大工の仕事が楽しくなりました。いや、楽しく思えるようになったというか…よく分からないですけど」と控えめな笑みを見せる。今ではできる仕事も増えてきたと言葉少なに話す。

淡々としたその口ぶりから、持ち前の粘り強さでここまで堅実に大工の道を歩いてきたかのように思えた光平だが、綸太郎と同じようにしばらく大工を辞めていた時期があったという。「1年ぐらいかな。これといった理由が特別あったわけではないけど…何か違うことをやってみたくなって。太陽光パネルの設置とか、鳶職とか…まぁ、いろんなことをやりました」。さまざまな仕事を経験した後、光平は再び宮川の下で大工として働くことになった。復帰までの経緯などについては詳しく話してくれなかったが、とにかく今は、大工の仕事に集中できているそうだ。

詰石 光平

1998年1月17日生まれ。同期の綸太郎とはかけがえのない仲間であるとともに、大工のライバルでもある。約1年間大工とは異なるさまざまな業種に就き、外の世界を体験。“武者修行”を経て人間としても一回り成長したと、宮川と綸太郎は話す。ストレス発散法は休日のバイクツーリング。

大工を辞めたいと自分の下を去った綸太郎と光平を、宮川は何も言わずに見送り、その後ふたりがまた戻りたいと申し出てきた時も、何事もなかったかのように迎え入れた。それは、自身もかつては大工であり、若いふたりの心情が痛いほど理解できたからだ。「大工は実力の世界。いっぱしに仕事ができるようになるまでは毎日ホンマにつらいよ。朝早くから日が沈むまで親方の言う通りに上へ下へと走り回ってクタクタや。その割には給料も安いしな。オレもまだ駆け出しのころは苦労したもん。だからまぁ、アイツらが逃げ出したくなったんもよう分かるわ」としみじみ話す。

宮川は高校を中退して大工の世界へ飛び込んだ。特に大工になりたいという特別な気持ちはなかったそうだが「中卒でも雇ってもらえたのがたまたま大工だっただけ」と笑う。「18歳のころとか、ホンマにどん底やったわ。腕もまだまだ未熟やし、当然金もなかったよ。同級生の連中は高校出て普通に就職して、カッコイイ車に乗ってオシャレな服着て遊び回りよる。そんなヤツらの楽しそうな姿を横目に、オレはオンボロの原付で現場に通ってた。毎日木屑と汗にまみれながら『今に見とけよ。すぐに見返してやる』って、必死に仕事を覚えたなぁ」。数多くの家づくりに携わり、ひたすら腕を磨きながら実績を積み重ね続けた宮川。そのたゆまぬ努力はやがて、自身の工務店「MIYAGAWA」設立へと昇華した。

あきらめなければ必ず道は開ける。自らが身を持って経験しているからこそ、若い大工や取引先の職人たちには常々「継続することが一番大切やぞ」と説いているという。「ずっと続けていれば必ず腕は上がる。腕が上がればお客さまに喜んでもらえる仕事ができるようになる。お客さまの喜びは、自分にとっての喜びとなって必ず返って来るんや。評判が上がればお客さまが知り合いに紹介してくれたりして新たな受注にもつながるし、受注が増えれば当然収入も増える。だから、その域にたどり着くまでは我慢してとにかく踏ん張れと。綸太郎も光平も、いろいろと経験を重ねるうちに、オレの言っていることの意味がだんだんと分かってきたんやないかな」。

真剣な眼差しで現場の動きに目を光らせる「MIYAGAWA」社長の宮川豪紀。

宮川の期待を背負い、一人前の大工に向かって階段を上り続ける綸太郎と光平だが、ここ2年の間にふたりのやる気をいっそう奮い立たせる環境の変化があった。後輩の天真と寛大が加わったことだ。

「出会えてよかった」と言われたい。だから今日も、持てる力のすべてを注ぎ込む。

ふたりでペアになって角材を天井に取り付ける天真と寛大。

「大工の仕事はやっぱり難しいっすね」と白い歯をこぼすのは、昨年から「MIYAGAWA」の家づくりを担う大工として新しく仲間入りした天真だ。額に巻いたタオルの上からは、シルバーに染めた髪の毛がピンピンと立っている。サッカーで鍛えたという引き締まった体で、スラリと伸びた手足は長い。顔も腕もこんがりといい具合に日焼けしている。若々しさに満ちあふれた、今時のイケメン青年である。現在は同社の請負大工・岡沢棟梁の下で修業に励んでいる。

高校を卒業したら職人になろうと思っていたという彼は、両親の勧めもあって「MIYAGAWA」の門を叩いたそうだ。「最初は自分にできるのか不安だったけど、宮川社長や綸太郎さん、光平さんたちが優しく指導してくれてありがたいです。僕も早く先輩たちみたいに全部の仕事をひとりでできるようになりたい」と目を輝かせる。宮川は天真を「見た目とは違って真面目で根性があるヤツ。終業時間が過ぎていてもその日の仕事を終わらせるまで文句一つ言わんとやり抜く姿勢も大したもの。この先きっと立派な大工に育つはず」と高く評価している。光平も良き兄貴分として「しっかりと応援していきたい」と大きな期待を寄せていた。

木下 天真

2003年3月29日生まれ。「MIYAGAWA」が手掛けた家のOBからの紹介で宮川と出会う。体力勝負の大工仕事にも、サッカーで鍛えてきた体とポテンシャルで問題ないとキッパリ。後輩の寛大の存在も良い起爆剤となり、日々技術と知識習得に燃えている。休日はもっぱら趣味の釣りに興じているそう。

大工の仕事はチームプレーだ。棟梁は全体の工程からその日のうちに完了させる作業を決め、部下の一人一人が持てる力を最大限に発揮できるよう仕事をアサインし、作業の流れを的確にコントロールする。大工は高いスキルを持つことはもちろん、大工同士のスムーズな連携も必要で、精度の高い仕事を短時間で完了させることを常に求められる。

綸太郎が司令塔となり、3人の大工たちに次々と指示を出す。光平も天真も割り振られた作業をスピーディーにこなしながら、真剣な眼差しで木と対峙している。メジャーを持って脚立に乗った綸太郎から寸法が伝えられると、光平がそのサイズ通りに素早く角材を裁断、それを受け取った天真が取り付けに向かう。コンビネーションはバッチリ。そこには若い力が清々しいほど躍動していた。

今や棟梁を務めるほど成長した宮川綸太郎。各人の動きを随時確認しながら指示を出していく。自社のポロシャツがよく似合っている。ピアスもしっかりと装着。相変わらずオシャレには気を使っているようだ。

綸太郎とは同級生で、一緒に大工の道に入った詰石光平。物静かに作業に取り組む姿は、以前よりぐっと貫禄が増していた。

外壁に防水シートを張る光平と綸太郎。さすが息もピッタリだ。

昨年から仲間入りした木下天真。まだまだ駆け出しながらも、スラリとしたフォルムで現場を駆け回る姿が様になっていた。

天真と一緒に長い角材を屋根に取り付ける作業に汗を流していたのが今年入ったばかりの寛大だ。この4人の中では最年少の18歳。大工になってまだ2ヵ月しか経っていないものの、他の3人と同様にテキパキと仕事に取り組んでいた。インパクトなどの道具も器用に使いこなしている。

寛大は幼いころから、ずっと大工になる夢を抱き続けていたという。「僕の実家は幼稚園の時に新築したんですけど、棟上の時に見た大工さんたちの姿がずっと脳裏に焼き付いていて。たった1日で骨組みを組み立てていく様子や、細い梁の上をスイスイ歩く姿とかを見て、カッコイイなぁと思ったんです。そこから大工は自分の憧れの職業になりました」。

小学生時代は野球のスポーツ少年団に所属。綸太郎の弟と同い年でチームメートだった。「そこでスポ少の世話役だった宮川社長に出会ったんです。その時にはすでに『将来は社長の会社で大工さんになりたい』って伝えてたんですよ」と茶目っ気たっぷりに笑う。時が流れ、高校を卒業すると満を持して宮川の下へ向かい、大工として働きたいと申し出たそうだ。「まさか本当に来るとは思ってなくて少しビックリしたけど、やっぱりうれしかったよ」と宮川は感慨深そうに目を細める。

今は綸太郎が寛大の親方となり、大工仕事のイロハを手取り足取り指導している。「素直でいいヤツですよ。のみ込みも早いし。初々しい寛大を見ていると昔の自分を思い出しますね。その時のオレと同じように、今はいろんな疑問や不安でいっぱいだろうから、そこに手を差し伸べて、大工の面白さややりがいを感じてもらえるように支えてやるのも、オレの役割だと思ってます」。

そう話す綸太郎の隣で、寛大は無邪気な笑顔を見せながら「うちは母子家庭なので、僕が一人前になって母や弟に楽をさせてやりたい。そのためにも早く仕事を覚えて、綸太郎さんや光平さん、天真さんよりもカッコいい大工として自立したいです」と決意を新たにしていた。

小原 寛大

2004年1月20日生まれ。高校時代は野球部の主将を務めた。憧れの大工になる夢がかない、毎日がスリリングで新鮮だとか。先輩たちに少しでも早く追い付こうとYouTubeで大工の動画を見て勉強するなど、日々の自分磨きを欠かさない。真面目で素直な性格から誰もに可愛がられる存在に。

ほとばしる汗と熱情。銀の翼を背負った若き大工たちが躍動する。

「MIYAGAWA」の建築現場に掲げられた垂れ幕。家づくりを通じ、お客さまと職人相互が「出会えてよかった」と思い合える関係を築くことを何より大切にするという意思表示だ。

綸太郎、光平、天真、寛大。4人の若き大工たちを、宮川は何も言わずじっと見守りながら「アイツらには大工としての技術と知識を増やしていくのはもちろん、家づくりの神髄を頭に叩き込んでほしいんや」と、外壁に掲げられた垂れ幕を指差した。その真ん中には大きな文字で「出会えてよかった」と描かれている。「MIYAGAWA」のコーポレート・ポリシーだ。「全てのお客さまから『あなたに出会えて良かった』と心から喜んでもらうことこそが大工の本懐。アイツらにはお客さまのために最善を尽くすという気持ちを常に忘れず、これからもお互いに切磋琢磨しながら高みを目指してほしい」と言葉に力を込める。さらに「4人ともこれからの住宅業界を支える貴重な存在。だからオレにはアイツらを大切に育てる責任とともに、経済的にも自立できるような環境をつくってやる義務がある」とも。

もう10年以上も叫ばれている大工の高齢化と後継者不足。宮川は「もはや待ったなしの状況を迎えており、各住宅会社もこのまま手をこまねいているだけでは何も解決しない」と警鐘を鳴らす。そこで宮川は今、若者に大工への興味と関心を持ってもらうための機会として、実際に大工作業を体験しながら、仕事の中身やその魅力とやりがいを体感してもらう講座「CRAFT TAKUMI 大工育成会」の構想を膨らませている最中だ。講座は毎週1回開講し、宮川をはじめとする「MIYAGAWA」の大工たちが受講生に技術指導を行うという。「受講料などは徴収せず、誰でも気軽に参加できるような会をつくりたいと思ってる。集まった若い人のうちの何人かでも、大工をやってみたいと手を挙げる人が現れてくれればうれしいな。そのためにも、大工をやりがいがあって、お金もきちんと儲けられる夢のある仕事になるように、オレらは努力し続けんといかん」と、宮川は前を向く。

宮川が今思いを寄せているのは、将来の住宅業界を支える若い大工の発掘と育成。その一環として、大工の仕事に関心がある人やモノづくりが好きな人、将来の進路に悩む学生などを広く募り、宮川をはじめ先輩大工が大工の魅力を直接伝える講座「CRAFT TAKUMI 大工育成会」の開講を計画中だ。

束の間の休息時間。宮川と共に輪になって談笑する4人に、あらためてこれからの目標を尋ねてみた。「経験と実績を重ねて立派な棟梁になる。いつかは『MIYAGAWA』の2代目社長になるという自覚を持つ(綸太郎)」「できる仕事を今よりもさらに増やし、いつかは一人立ちしたい(光平)」「まずは仕事を一通り覚え、何でも一人でできる技術と知識を身につけたい(天真)」「現場で一緒になるいろんな業種の職人さんたちのように、自分もカッコいいプロフェッショナルになる(寛大)」といったように、それぞれが熱い思いや夢を胸にしっかりと抱いていた。印象的だったのは、4人とも「全てのお客さまに喜んでいただける家づくりをしていきます」と口をそろえたこと。宮川が最も大切にしている大工の矜持は、彼らの心にもしっかりと根付いているようだ。他愛のない話に花を咲かせる4人を見つめる宮川の眼差しは、大きな慈愛に満ちた父親のように温かく、優しかった。

休憩時間に宮川を囲んで談笑する4人。

ひとしきり休憩を終え、4人は再び持ち場へと足早に戻っていく。それぞれの背中には銀色に輝く翼が見える。留まることなく成長し続けるその翼を広げ、凛々しく雄大に羽ばたく未来はそう遠くない。綸太郎、光平、天真、寛大。ほとばしるテストステロンをビンビンに放出しながら、悩み、もがき、挑戦し続ける今この瞬間が、どこにでも転がっているジェネレーション・ギャップで終わるのか、はたまた、ベテラン腕利き大工の甘酸っぱいやんちゃなエピソードへと昇華するのか。すべては、彼ら次第だ。

(文中敬称略)

取材協力/株式会社 MIYAGAWA

香川県丸亀市飯山町東坂元2839-5
☎0877-98-1430
http://www.m-miyagawa.com

※文章の内容、写真、情報は2022年の取材当時のものです。

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