目の前に瀬戸内海、背後には中国山地と四国山地を構える瀬戸内地域の自然環境。そしてその自然に育まれた人文化と歴史。家の窓からのぞく遠くの山々、街に点在する田畑やふるさとの料理。これらは全て「風土」をひもとくことで、地続きにあることが理解できる。「風土」を知り、瀬戸内がどのような地域であるのかという解像度を上げることで、暮らしは豊かになるのではないだろうか。全5回に分けて、本誌に掲載しきれなっかった情報を織り交ぜつつ、瀬戸内の風土についてレポートしていく。
今回は第4回「瀬戸内の産業について」。交通網の歴史や成り立ちや、漁業・農業・製塩業の変遷などをたどっていく。
目次
海、橋、陸を結び、人々をつなげ続けてきた交通網。
昔方の交通網。
瀬戸内海の海運航路の利用は、古代までさかのぼる。大陸渡来の鉄やガラスなどの物資を日本各地へ運搬したり、日本各地から採れる石材を各地の豪族の墓に使うべく運搬したりと活用されていた。また、物ばかりではなく遣唐使などが使用する唐への海路としての役割を果たしており、人を運ぶ瀬戸内海の様子は『万葉集』などに採られている和歌からも知ることができる。そして室町時代になると、畿内を中心とした経済発展に伴い、経済的交流のあった瀬戸内海沿岸地域に活発な港町が誕生していく。この代表が、岡山県の牛窓や広島県の鞆の浦だ。現在も当時の風情を残した町並みが人気を博し、観光地として賑わっている。戦国時代には、瀬戸内海に名を広く知らしめていた「村上水軍」が歴史的な戦いに大きな貢献を果たすなど運搬以外での航路活用も見られる。
江戸時代に入ると、河村瑞賢によって「東廻り航路」に続いて「西廻り航路」が開かれる。「西廻り航路」は「東廻り航路」よりも距離は伸びるが、安全性が高かったためよく利用されることになり、瀬戸内海沿岸地域の発展に大きく貢献することになった。さらに、庶民にも観光文化が浸透し「御蔭参り(おかげまいり)」などが盛んになり、活発な人の往来を助ける重要な航路となっていく。さらに国内ばかりの航路活用にとどまらず、オランダ使節や朝鮮使節、琉球使節などを迎え入れて交易が行われていたという記録が残っていることから、重要な交易航路としても活用されていたことが分かる。さらに「輸入の神戸、輸出の横浜」と呼ばれるように、太平洋に面した横浜と名を並べるほど、その物流が活発であったと推察される。瀬戸内海は古来より、国内外を問わず開かれた、重要かつ活発な海運航路であったのだ。そして、その活発な物と人の往来は現代にも受け継がれていることは言うまでもない。
現代の交通網。
現在、本州と四国地方は3つの橋によってつながれており、これを「本州四国連絡橋」という。東から、兵庫県と徳島県に架かる「神戸-鳴門ルート」、岡山県と香川県に架かる「児島-坂出ルート」、広島県と愛媛県に架かる「尾道-今治ルート」の3ルートだ。各ルートには通称があり、それぞれ「明石海峡大橋」と「大鳴門橋」、「瀬戸大橋」、「瀬戸内しまなみ海道」と呼ばれている。さらに「本州四国連絡橋」は人や物の往来だけでなく、送電線や導水管、光ファイバーなども通っており、ライフラインとしての機能も担っている。瀬戸内での生活には、交通の面からもライフラインの面からも不可欠な存在であると言えるだろう。
また、これらの橋全てが自動車道を併用しており、「本州四国連絡道路」という。「神戸-鳴門ルート」は神戸淡路徳島自動車道、「児島-坂出ルート」は瀬戸中央自動車道、「尾道-今治ルート」は西瀬戸自動車道である。さらに瀬戸大橋は鉄道も併用しており、鉄道道路併用橋としては世界最長で、2015年にギネス世界記録にも認定されている。また、西瀬戸自動車道には歩行者・自転車・原動機付自転車の専用道路も併設されており、「しまなみサイクリングロード」として親しまれている。それぞれの一日あたりの交通量平均は、神戸淡路徳島自動車道で約37500台、瀬戸中央道では約22700台、西瀬戸自動車道は約12600台と非常に交通量は多い。 また、中国地方と四国地方をそれぞれ横断する自動車道もある。中国地方を横断する「山陽自動車道」と、四国地方を横断する「四国横断自動車道」だ。これらは「国土開発幹線自動車道」であると同時に、高速道路でもあるため人やもののスピーディーな移動が可能となっている。
海からも大地からも恵みを受けてきた瀬戸内の産業変遷。
漁業や塩業などの、海の幸に支えられていた瀬戸内。
瀬戸内海は水深が浅い内海で、干潟や藻場が点在している。そのため、古くから多くの魚介類の生育場となっており、漁業が盛んな地域だった。縄文時代や弥生時代の遺跡や貝塚からは多種多様な魚類の骨や、漁のための道具が出土している。江戸時代には、綿作などの商品作物の栽培が盛んになることで瀬戸内の漁業が飛躍的に発展した。肥料として使用されていた干鰯(ほしか)の需要増大を受けてイワシ漁が盛んになったためだ。このイワシ漁は、昭和中期まで瀬戸内の代表的な漁業となる。戦後には漁獲漁業に代わって養殖漁業が盛んになり、瀬戸内を支える新たな漁業となっている。室町末期から続く、広島のカキ養殖や、江戸時代から盛んな兵庫県のノリ養殖、徳島県の鳴門ワカメに代表されるワカメ養殖などだ。そこに加えて、近年では岡山県や香川県が注力している栽培漁業も、新たな瀬戸内の漁業の形として注目されている。
また、瀬戸内地域では豊富な海水と少雨温暖な気候と交易のための海路に恵まれていることから、明治時代頃まで製塩業が盛んだった。「讃岐三白(砂糖・綿・塩)」や「防長三白(米・紙・塩)」にはそれぞれ塩が含まれていることからも、製塩に向いていた土壌であったことが分かる。また、近世になると「瀬戸内十州塩田」と呼ばれる製塩地域が誕生する。これは、製塩が盛んで高品質な塩の生産地である、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予をまとめた呼び名のことだ。十州塩田の塩は、安定した供給量と品質の高さから日本全国に流通していたが、19世紀頃から法整備などの影響で衰退してしまう。しかし、愛媛県伯方島の塩田を由来とした塩が国内で広く販売されるなど、当時の塩田を想う人々の気持ちは現在にも脈々と続いている。
産業の近代化、工業で発展していく瀬戸内。
高度経済成長期を迎えると日本全体の産業が重工業へとシフト。瀬戸内地域にも大きな影響を与えた。東京や大阪などの都市部では不可能な大規模用地や大規模用水の確保に、瀬戸内が工業地帯として適地と判断されたのだ。瀬戸内は埋め立てることで用地を獲得しやすく、波が穏やかなために埋め立てや工場建設が行いやすい。陸海ともに交通の便が良いことなども適地としての理由に挙げられる。こうして開発されていった瀬戸内の工業地帯は、次第に公害問題を引き起こしていってしまう。産業排水や生活排水によって赤潮が発生し、甚大な漁業被害をもたらしたのだ。
現在では、環境保全や公害防止の観点から条例や協定が定められ、自治体をはじめ各企業や住民たちの働きかけで環境の改善がなされ、約3m先が見える程度であった透明度も約6m先まで見える程度まで回復。しかし、水質の改善は完璧すぎるほどで、近年の温暖化による水温上昇も影響し「貧栄養化」になってしまっているのが現状だ。現在の瀬戸内海は「きれいすぎる海」と呼ばれ、養殖ノリの色落ちやプランクトンの減少、それに伴う魚の減少などの弊害が表れ始めている。今までは汚染された海から「きれいな海」を目指していたが、これからは「きれいな海」を維持しながらも、より「豊かな海」を目指すフェーズに突入していると言える。
参考文献
- 『瀬戸内海事典』南々社.2007
- 『海と風土-瀬戸内海地域の生活と風土』地方史研究協議会.雄山閣.2002
- 『新・瀬戸内海文化シリーズ1 瀬戸内海の自然と環境』柳哲雄.瀬戸内海環境保全協会. 1998
- 『新・瀬戸内海文化シリーズ2 瀬戸内海の文化と環境』柳哲雄.瀬戸内海環境保全協会.1999
- 『瀬戸内海の環境保全 平成13年度 資料集』瀬戸内海環境保全協会.2002.
- 『瀬戸内における水寛容を基調とする海文化』瀬戸内海環境保全協会.2015
- 『ふるさと日本の味9 瀬戸内・黒潮海の幸』第二アートセンター.集英社.1983
- 『瀬戸内海地域誌研究 第3輯』文研出版.1991
- 『宮本常一 瀬戸内文化誌』宮本常一.八坂書房.2018
- 『瀬戸内四国の自然』伊藤猛夫.六月社.1965
少しでも「へ~!」と思ってくれたら幸いである。知ることから得られる楽しみも、きっとあるはず。
第5回である最終回は、「瀬戸内の文化について」をレポート。お楽しみに!
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